地蔵堂横に展示されていた新聞の切り抜きに書かれていた小串鉱山の情報をまとめてみます。
長いですよ(ノ´∀`*)
1923年 小串硫黄鉱脈が発見される
1929年 北海道硫黄株式会社の小串鉱業所として操業開始
この会社は三井物産の硫黄採掘部門が独立した企業で、それまで三井物産は北海道で硫黄を採掘してきたので企業名に北海道の文字が入っているようです。
当時は硫黄を火薬を作るために使う用途が多かったため、戦争中はいい値で売れるが、戦争が終わってしまうと一気に値が下がってしまうため経営が不安定になりかねない、ということで三井物産から分離させたそうです。
小串鉱山は長野県と群馬県の県境で、精製した硫黄を搬出するために索道が作られました。しかし、この索道は人が乗れるものではなかったため、社員は鉱山に町を作って生活するようになります。また、病気になった人のために病院を作り、子供の教育のために私塾も作られたようです。この私塾は後に小学校としての認定を受け、高等科が増設されるようになります。
こうして小串鉱山には町が形成され最盛期には2000人が生活するようになりますが、ある時悲劇が起きます。
1937年 11月11日地滑り発生
社宅や学校があった地区で地滑りが発生しました。就業時間中だったようで、社宅に残っていた女性や学校にいた子供たちの多くが犠牲になり、245名が亡くなりました。同時に火災も発生したらしく、合計50棟の社宅が失われ、硫黄の生産設備も全滅しました。硫黄は青色の炎を上げるらしく、ところどころで青い炎が上がっていたそうです。
この地域は硫黄の精錬過程で発生したガスによって木々は枯れ、土壌が弱くなっていたために地滑りが発生したようで、現在でも木はほとんど生えておらず、この場所の名前も毛無峠になっているほどです。
地滑りが発生した場所の近くには地蔵堂が再建されており、さらに奥には鎮魂の鐘が設置されています。自分も鳴らしましたが、何回鳴らすべきなのか分からず、とりあえず3回だけにしておきました。
もしかして245回かΣ(´∀`;)
1938年 操業再開
設備も人員も失い硫黄を採掘できる状態ではなくなってしまった小串鉱山ですが、1937年7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が始まり火薬が必要となったため、国が復旧作業を支援しました。その甲斐あって翌年には操業再開にこぎつけています。
第二次世界大戦と太平洋戦争による硫黄需要に支えられ、順調に生産量を拡大し、最盛期には採掘量が2万トンを超えます。しかし、それ以降戦争による硫黄需要は陰りを見せ始め、次第に生産過剰気味になっていきます。
1960年 回収硫黄が市場に出始める
石油を燃焼させた際に発生するSOxの発生を抑えるために石油中から硫黄を分離するようになり、そこで分離された硫黄が販売されるようになりました。回収硫黄を所持していたとしてもただのゴミなので鉱山硫黄と比較すると安価で供給量も安定している、という利点がありました。
人員や設備の効率化を図って、なんとか回収硫黄に対抗しようとはしたものの小串鉱山は最後の年を迎えてしまいます。
1971年 回収硫黄が市場を独占
ついに鉱山硫黄が市場から姿を消しました。こうなると何をしても在庫が増えるだけで、閉山する他ありません。
公害が問題になり始めたのはこの少し前の時期で、回収硫黄の流通量が増えていくことが容易に想像できた上、自分たちは鉱毒対策をする必要があった、という要因も重なったのでしょう。この年の6月に閉山してしまいます。国内最後の硫黄鉱山だったようです。
長いですよ(ノ´∀`*)
操業当時の様子
1923年 小串硫黄鉱脈が発見される
1929年 北海道硫黄株式会社の小串鉱業所として操業開始
この会社は三井物産の硫黄採掘部門が独立した企業で、それまで三井物産は北海道で硫黄を採掘してきたので企業名に北海道の文字が入っているようです。
当時は硫黄を火薬を作るために使う用途が多かったため、戦争中はいい値で売れるが、戦争が終わってしまうと一気に値が下がってしまうため経営が不安定になりかねない、ということで三井物産から分離させたそうです。
小串鉱山は長野県と群馬県の県境で、精製した硫黄を搬出するために索道が作られました。しかし、この索道は人が乗れるものではなかったため、社員は鉱山に町を作って生活するようになります。また、病気になった人のために病院を作り、子供の教育のために私塾も作られたようです。この私塾は後に小学校としての認定を受け、高等科が増設されるようになります。
こうして小串鉱山には町が形成され最盛期には2000人が生活するようになりますが、ある時悲劇が起きます。
1937年 11月11日地滑り発生
社宅や学校があった地区で地滑りが発生しました。就業時間中だったようで、社宅に残っていた女性や学校にいた子供たちの多くが犠牲になり、245名が亡くなりました。同時に火災も発生したらしく、合計50棟の社宅が失われ、硫黄の生産設備も全滅しました。硫黄は青色の炎を上げるらしく、ところどころで青い炎が上がっていたそうです。
この地域は硫黄の精錬過程で発生したガスによって木々は枯れ、土壌が弱くなっていたために地滑りが発生したようで、現在でも木はほとんど生えておらず、この場所の名前も毛無峠になっているほどです。
地滑りが発生した場所の近くには地蔵堂が再建されており、さらに奥には鎮魂の鐘が設置されています。自分も鳴らしましたが、何回鳴らすべきなのか分からず、とりあえず3回だけにしておきました。
もしかして245回かΣ(´∀`;)
1938年 操業再開
設備も人員も失い硫黄を採掘できる状態ではなくなってしまった小串鉱山ですが、1937年7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が始まり火薬が必要となったため、国が復旧作業を支援しました。その甲斐あって翌年には操業再開にこぎつけています。
第二次世界大戦と太平洋戦争による硫黄需要に支えられ、順調に生産量を拡大し、最盛期には採掘量が2万トンを超えます。しかし、それ以降戦争による硫黄需要は陰りを見せ始め、次第に生産過剰気味になっていきます。
1960年 回収硫黄が市場に出始める
石油を燃焼させた際に発生するSOxの発生を抑えるために石油中から硫黄を分離するようになり、そこで分離された硫黄が販売されるようになりました。回収硫黄を所持していたとしてもただのゴミなので鉱山硫黄と比較すると安価で供給量も安定している、という利点がありました。
人員や設備の効率化を図って、なんとか回収硫黄に対抗しようとはしたものの小串鉱山は最後の年を迎えてしまいます。
1971年 回収硫黄が市場を独占
ついに鉱山硫黄が市場から姿を消しました。こうなると何をしても在庫が増えるだけで、閉山する他ありません。
公害が問題になり始めたのはこの少し前の時期で、回収硫黄の流通量が増えていくことが容易に想像できた上、自分たちは鉱毒対策をする必要があった、という要因も重なったのでしょう。この年の6月に閉山してしまいます。国内最後の硫黄鉱山だったようです。